演技と演出

これも数日前に本屋に平積みになっていたものです。

大学の時のゼミの同級生が「パントマイムにおける空間共有」とかなんとかいう研究をしていて、平田オリザを何度か引用していたので、ちょっと読んでみました。

「演出」という言葉はマーケティングに少々かぶりますよね。


平田オリザアフォーダンスなど、認知科学のスキームを折に触れて引用していますが、そういう意味でとても現代的な考え方をしていますね。 前半部分で引っかかった一文

「演劇は、現実に近ければリアルになるとは限らない。観客とのイメージの共有ができた時に、初めてリアルな世界が、観客の脳の中に立ち上がってくる」

それから、

「標準的な動作を繰り返しても、相手とのイメージの共有ができるとは限らない。実は、特殊に見える動作を行ったほうが、逆にイメージの共有がしやすくなることが多くあるのです」


この人は、観客と俳優の脳みその中に広がる平面なのか立体なのか、ネットワークなのか、まあその言及はありませんけど、その「コンテクスト」と呼ばれるものに対する操作を「演出」と呼んでいるようですね。

この間の東浩紀の「インターネットのフレームワークによって政治や経済が語られる時代」のところでも似たような話がありましたけど、社会や個人を複雑なネットワーク体として「見立てる」のって現代の根本的な概念ですね。

平田オリザの「演出」も観客や俳優を「コンテクスト」というネットワーク体で見立てている節が見えます。(認知科学なのでニューラルかな?)

ただし、、この「コンテクスト」はそれ以上明確には描写されていません。せいぜい「その人の身にしみているもの全体」という定義。

ここの部分は意見が分かれるでしょうね。

コンテクストをより抽象化して見える形に定義してあげた方が方法論としては親切でしょう。 阿久津さんの「コンテクスト・ブランディング」なんかが良い例です。ま、べつにいいんですけどね。

そういう話はさておき、観客のコンテクストに関する操作のティップスでいくつか面白いことが書いてあったので、そこだけ引用しておきます。


「間を取るということはすなわち、観客が想像力の翼を広げる時間帯なのです」

「しかし、観客の想像力は無限大ではありません。開いた想像力はどこかで閉じて挙げなければなりません」

「俳優は、科学者に見えるという範囲内で、標準的(と思われている)な科学者像から、最もとおいところを探さなくてはなりません」