[]終戦の日に際し

痛い


全身の筋肉が痛い


上半身の筋肉量を増やしましょうと言われた気がするのですが、実際に痛いのは下半身の筋肉。 足が、お尻が、腿が、、、


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質問:太平洋戦争に関し、日本とアジア諸国は共通理解を得ることができるのでしょうか?



60回目の終戦の日に際し、この問題に関して簡単に考えをまとめておこうと思います。


日本−アジアの先の大戦に関する話題はとてもタッチーですね。出来れば触りたくない。仕事上でも中国をはじめとしたアジアの人達と一緒に何かをすることは多いのですが、戦争の話はほとんど話題にしません。

どー思ってるのかな、と気にはなりますが、あまりにも危険すぎるので、話題としてなるべく避けています。


「日本には戦争責任があるのではないか?」と言われたら、本音では「ちょっとまて、あの戦争を起こしたのは僕ではない」と答えてしまうかもしれません。


加藤典洋が言うように、僕の意識は液状化していて、個人の問題としては戦争の問題を引き受けていません。


しかし、そうも言っていられないのが現状というもので、相手の意識の中には、確実に「父・母・祖父母」が日本人に殺されたという意識があるわけで、この問題にどう立ち向かうかを考えておかねばなりません。 無視しようとするのは自由だが無視されることは無い。




ところが、ここが難しいところで、太平洋戦争に関しては、アジア諸国と日本(と欧米諸国)の間で客観的に正しい1つの解釈を作ることは不可能です。


先の中国の反日抗議の際にも、お互いがお互いの最悪の部分を見ているので、中国側は「日本最悪」と言うし、日本側はそういう中国を見て「中国とはやっていけない」と言う。 

日韓の間でも、新しい歴史教科書の発刊後、悪化した両国関係の修復のため、両国の歴史専門家が3年かけて共通認識を構築しようとしたそうですが、結局できず、最終報告書では双方の見解を「併記」したそうです。


ただ、こうした状況(客観的な1つの史実を共有できない)になってしまうは至極当然のことです。 なぜなら、これは哲学的には古典的な「認識」の問題に由来していて、「世界を正しく認識する(=客観的な認識を得る)ことは可能か」という大問題だからです。




例えば、「りんご」というものを

 人間は、: 「果物、食べることが出来る」
 ねこは、 : 「丸いもの、じゃれると転がる」
 とんぼは、 : 「硬くて動かないもの」
 アメーバは、 : 「?」

と認識します。(「はじめての現象学」より抜粋)


主体が異なれば、認識は異なるわけで、この問題は、ニーチェやカントやフッサールらが長い時間をかけて解決可能な問題なのかどうかを考えてきた問題です。


同じ、「太平洋戦争」であっても、日本・中国・韓国、、、と主体が変われば「太平洋戦争」に対する認識は異なります。あたりまえのことです。 


ちなみに、この「認識」の問題ですが、結論を言うと、本当に「客観的なただ1つの正しい認識」というものは存在しない、もしくは存在したとしても人間には認識できない、もしくは、そういうものがあるかどうかを問題にすること自体に意味が無い、というのが哲学的な結論のようです。





フッサールはここから、異なる主体間(日本・中国・韓国、、、)では、ただ1つの正しい客観というものはあり得ないが、共通した認識を持つことはありえる、とし、その共通認識をもたらす共通構造に目を向けるべきだ、としています。


僕は、ここが要点だと思います。


しかもラッキーなことに、我々はグローバリゼーションの時代に生きています。グローバリゼーションを前提にすると、戦争の加害者・被害者の間で、共通認識の構造を持つことは十分可能です。なぜなら、グローバリゼーションの本質は、「東か西か」という思想的な2極の対立ではなく、「北か南か」、つまり金持ちかそうでないか、という1軸でのポジショニングにあるからです。


ある行為を行うこと(例えば、中国で反日抗議を行うことや靖国に行かないこと)が、功利的に考えてプラスかマイナスか、という価値判断のもとに、それを行うこと(もしくは行わないように仕向けること)は、極めて容易な世の中になっていると思います。


「死んだ人に対して哀悼の意を表わす」


これは、どの主体にとっても共通認識としてプラスのことです。 このベースの上にお互いに利益になるような行動、つまり互恵の行動を積み重ねていくことによって、この問題は必ず解決が出来ると思います。


打算的だと言われても、そうした互恵行為を積み重ねていくうちに問題は解決します。人間の認識はそういうものです。


アメリカは日本に原爆を2つ落としました。 これは大量殺人行為だし、決して許されないもののはずですが、この問題に関し面と向かってアメリカに食ってかかる日本人はまれです。 アジア諸国が日本に食ってかかってくるのとは大違いです。


敗戦後、日本はアメリカと互恵的な立場にあります。そうした行動ひとつひとつの積み重ねが、まさに行動療法のように、日本人の現在の認識を作り上げているのだと思います。


なべの答え:客観的なただ1つの認識を共有することは出来ないが、お互いに利益になる認識を共有することは可能。