[]シャイン

12月ということでそろそろ今年の棚卸と来年の抱負を作らねば。

来年は今のところ「コップを見て20分話す」にしようと思ってます。20代の負の遺産を一掃するという意味で。



*******

シャイン


大学1年の時に、今役者を目指してがんばっているサークルの友達が「すごく良い」と言っていたこの映画、10年経ってやっと見ました。

麻布十番のベーグル屋でPCで見たんですが、今度は家のスピーカーでちゃんと音を鳴らして観たいです。

実際のピアニスト、デイヴィッド・ヘルフゴッド(1948-)の半生を描いた作品で、天才と呼ばれた少年時代から精神病を患う大人の時代、ピアニストとして奇跡的な復活を遂げるまでの時間軸を描写しています。

本人の半生自体がとてもドラマチックなのでそれだけで作品になってしまうのでしょうが、ストーリーは「父親との関係」を中心に展開されていきます。


  「親から子供への期待」はどの程度が適当なのか?




ドイツからの帰りの飛行機の中で「チャーリーとチョコレート工場」を観たのですが、乱暴なまとめ方をすれば、「シャイン」は「チャーリーと、、、」は正反対の位置づけになります。

すなわち、親から子供への強制を負の側面から描いているのが「シャイン」で、正の側面から描いているのが「チャーリーと、、、、」ということになります。

もちろん、双方とも、親と子供の状況がまったく異なるし、そこまで簡略にするのは乱暴が過ぎるのですが、どちらも「子供に対する親の期待のあり方」について語っている点は共通しています。

デイビットの場合は、父親からの期待がかなり歪んでおり、それが本人の人生に大きな影響を与えます。そのことは結局最後まで尾を引き、結局父親は許されること無く死んでしまいます。逆に、「チャーリーと、、、」では、工場に招待される5人の子供のうち、4人は親からの期待が「無い」か「足りない」か「適当でない」ことが描写されており、そのことに対して明確に「NO」を表明している童話ということになります。

許容される「親からの期待」は文化によって既定されます。「日本人として」成長することを求められた戦前の「親からの期待」と、戦前世代の大人達に対する反抗として、「すべてあなたの自主性に任せるわ」と子供を放任した60年代〜70年代のヒッピー的親からの期待もあれば、70年代〜80年代の団塊ジュニア的な「とにかく勉強して出世しなさい」的な実利重視の親からの期待もあります。

適当の程度は時代によって変わっていくのですが、「シャイン」も「チャーリーと、、、」もその現代的な「適当」な値を描写しています。

「シャイン」のピーターのような期待に対して反発を感じつつ、「チャーリーと、、、」の4人の子供達の親たちに憤りを感じるあたりが、現代の「許容される親から子供への期待」のレベルのリアルなんでしょうね。