[]アルジャーノンに花束を

アルジャーノン

「24人のビリー・ミリガン」と並ぶ、ダニエル・キイスのもう片方の世界的有名作品。



知的障害を持ったチャーリーが脳外科手術を受けることによってIQ68からIQ150の天才になる話。本人の経過報告が手術前からエンディングまで続いて行きますが、当初本人が予想し、また世の中の人が思っているほどIQがあがることによって幸せにはならず、最後は、、、、というお話です。



「幸福は社会と自分との関係性の中にある」という基本主張を元に、(おそらく当時全盛であった)知能万能主義に対するアンチテーゼとして書かれたものだと思います。



今の時代は、IQだけでは駄目だよね、という共通認識が出来上がり、EQだのなんだのといった別のコンセプトも出ています。なので弁証法的にはダニエル・キイスがこの小説を書いた段階よりももう一段高いところに社会が来ています。



知能か感情か、みたいな命題に関しては30年前よりも前進しているように思うのですが、逆に30年前からちっとも変わっていないのが「ゆとり教育」に関する議論。この領域に関する大半の人の発言は、テーゼとアンチテーゼの間を揺れ動いているだけでまったく発展が見られません。



歴史的にみて欧米へのキャッチアップ(つまり、知識を海の向こうから持ってきてそれを覚える)型の社会構造・教育構造がもう持たない、という認識があったと思っています。与えられた問題を解く人材ではなくて、新しい問題を設定しクリエイティブに解決する人材を育てるにはどうすれば良いのか、という問題意識の中から、「詰め込みに使う時間を減らし、問題解決に使う時間を増やそう(なので学習時間全体は変わらないはず)」という流れが出てきた、と理解しています。



昨日、ジムでワークアウトをしながら、ニュースでワタミの社長が「ゆとり教育は間違っているので、教科時間数を増やすべきだ」という話をしているのを聞いていましたが、この教育システムが導入される前に社会的に共有されていた問題認識に対する解答はどうするのか?



それを踏まえたうえでの次の一歩でなければ、ただの退行じゃないのか?そんな風に思うのは僕だけでしょうか?