[]テレビCMを読み解く

テレビCMを読み解く



絶版のため入手不可能だったのですが、アマゾンのマーケットプレイスに突如として数点出展されていたので、即買い。


内田隆三の本ですが、「身体」という視座からTVCM誕生以降の表現の変遷を取りまとめた力作です。 久しぶりに読んで、少々難解な部分もあったのですが、極めて面白い視点でのCM論だと思います。




効用訴求によっては人はまだ誘惑されない。なぜなら、それは欲望と商品とが自己と他者の関係を保ち、客観的な「距離」を計算されるだけ保っているからだ。 

「欲望」とは、ボードリヤールが示した「ナルシス的概念」として捉えるべきであって、商品に「誘惑される」とは、それを所有する自分に対する自己愛と考えるべき。




なのだとか。 


最後まで、内田隆三がなぜに「身体」を視座としてCMを読み解こうとしたのか、その意図がわからなかったのですが、よくよく考えると、CMは第一次的な存在理由は「商品やサービス、企業を売り込むこと」なわけで、「欲望」を喚起する機能を期待されており、「欲望の喚起」とはナルシス的概念なのだから、それは当然「身体」(CMを見た人の身体)に還元して考える視点が必要、ということだったのでしょうかね。



それはそうと、最終的に「身体表現のコスモロジー」として、CMの歴史における身体表現の肝が整理されるのですが、その過程で出てくる、パーシャルな身体のコスモロジーが非常に興味深いです。


1.ボードリヤールの<身体>の四辺形

人間の身体とは

 ?屍体
 ?獣
 ?ロボット
 ?マヌカン

のリミットの内部に成立するそうです。(そしてCM表現は、そのリミットに挑戦していくところで生まれることがある)



2.ロートレアモンの「手術台の上の洋傘とミシン」

シュールレアリスム的なイメージの意味の転換の例として出てきますが、この手術台の上の洋傘とミシンに関しては、ダリとレヴィ・ストロースがぶっ飛んだ解釈をしていて、特にレヴィ・ストロースはさすがに構造主義の大家なので、最終的には関数的なF(−1をかける)という構造としてまとめています。

はっきり言って、ものすごい違和感があります、この議論には。




内田隆三も最後には、「情報化社会とそれ以前」という時代の区切りを持ち出して、ロートレアモンの「手術台の上の洋傘とミシン」のような、意味的な操作がCM表現から後退し、感覚表現(特に麻薬的な感覚の洪水)が主流に、のようなことを言っていました。


まあ、まさにその通り、なのですが、そういう感覚的なものが主流を占めるようになって結構時間がたっていると思うのですね。(10年くらいか?) そうすると、やはり次はどうなるのだろうか、と考えてしまいますね。