[]「ゲーム的リアリズムの誕生 (東浩紀 2007)」を読んで、色々考えた。良い本です、お勧め。

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動物化するポストモダン」が本棚のどこにあるのかどうしても見つからなくて(実家に置いて来たのか、どうでも良いくだらないビジネス書の中に埋まっているのか。。。)、前著の復習が出来なかったのですが、「動物化するポストモダン2」のサブタイトルがつく、東浩紀の著作を読みました。



笠井潔との激しい批判的往復書簡をまとめた「動物化する世界の中で」(集英社文庫 2003)をぱらぱらと見直しました。ここで東浩紀が最後までこだわった「いま、ここ」を語ろうとする姿勢が「ゲーム的〜」でも見られた、というのが第一の感想です。



宮台真司もそうですが、現実社会に対して彼らの視座から言葉を投げかけていく姿勢は、純粋に参考になります。僕らは、会社に勤めたり、政治参加したりする、社会の中のプレーヤーです。自分が参加している社会との関わり方を客観的に見つめなおす必要があって、こういう人たちの言説は参考になります。





東浩紀の本書での主要なポイントは、後半部分の作品論以降で出てくる「プレイヤー視点の文学」の周辺の話だと思います。「大きな物語の消尽のあと、もはや自分が動物=キャラクターでしかないことを知りながらも、それでも人間=プレイヤーでありたいと願ってしまう私たち自身の、いささか古い言葉を使うならば「実存的な」問題」という時代背景の分析があって、おそらくこの話は次の著作に繋がっていくのだと思います。





マーケティングの立場から見た場合、これが10年前だったら、「なるほど〜、これはマーケティング的にとても参考になる意見だ」と思うのでしょうが、今の時代はそこまでのインパクトはありません。なぜかと言うと、マーケティングの主要な関心はいまは新興国(特にミドルセグメント)が何を考えているか、にあって、ここで分析されているような先進国(というか、日本)の社会文化的な話は細かすぎるからです。この傾向は、この先加速していきます。細かい日本の社会学的考察からマーケティングを語っていた人たちは、今後大きな方向転換を迫られると思います。





しかし、そんなことはさておき、この人の文章は非常に示唆に富んでいます。なぜかと言うと、彼の話をベースにすると、今と未来で起こりつつあることの意味が違った形で見えてくるからです。



二つ、備忘録的に書いておきたいと思います。



まず、「動物化する〜」で提示されている二つの軸があります。それが、「大きな物語の消滅⇔ポストモダン」と「コンテンツ志向⇔コミュニケーション志向」なのですが、この2つ軸を使うととても興味深い分析があぶりだされてきます。



軸が2つあると、とりあえず4象限に分けたくなるのはマーケティング系の人の悪い癖だと思うのですが(ちなみに、これは橋爪大三郎が、遠近法の考え方から来ている、と昔言っていました)、とにかく2軸で4象限に分けてみます。すると、面白い話が出てくるのですが、4象限のうち、2つの象限はそれが何なのか明確です。すなわち、、、







1.コンテンツ志向×大きな物語



→これはオヤジのことですよね。笠井潔に対する書簡の中で、東は「右だろうが左だろうが、それは自分の世代の「いま、ここ」には何の関係も無くて」という言うようなことを言っています。正直、僕も同じように感じる世代なのですが、さすがにこれは前の世代の人たちにとっては暴論に聞こえるんでしょうね。ただ、個人的には冷戦前を代表するものは、ここの象限に入ります。





2.コミュニケーション志向×ポストモダン



→これは、オタクのことですね。「動物化」「データベース消費」もここに入るんだろうと思います。





明確では無いのは、3.コンテンツ志向×ポストモダン、と4.コミュニケーション志向×大きな物語、の象限





これが一体何なのかを考えると、色々なことが見えてきて面白い。







東浩紀は「大きな物語が消滅して〜」と繰り返し言いますが、最近、その大きな物語復権しつつあることを感じませんか?



これ、グローバル化と密接に絡んでいるんですが、「大きな物語」は二つあって、それぞれ先進国と新興国で勃興しています。





すなわち、先進国では「環境」、新興国では「発展」です。





実は世界は温暖化していない、と言う話がまことしやかに囁かれていますが、世界が、科学的に見て、本当に、温暖化しているかどうなのかということは「CO2/環境」という新しい大きな物語には関係ありません。



そうではなくて、先進国には新しい物語が必要なんだろう、と思います。なぜなら、大きな物語ベルリンの壁が崩壊した時に喪失しており、その後の資本主義は物語として語るのにはあまりにも低俗(なんだ、ただの金儲けじゃん、と思われる)だからです。



地球が温暖化するのかどうか、が万に一つ眉唾の話だったとしても、エネルギーを石油・石炭に頼るシステムは脆弱すぎるので、「CO2/環境」を大きな物語として社会構造を変更しようという動きは加速すると思います。



この物語はかなり強力なので、早い所、物語に参加したほうが良い。







新興国の「発展」の方は、非常に単純で、経済的な「発展」のほうです。日本人が戦後信じてきた物語です。 ゼロ金利でジャブジャブあまったお金が新興国に集まるのも、この物語が人類普遍のものとして受け入れられているからです。





おそらく、これらの新しい物語たちが3.大きな物語×コミュニケーションの象限に入るのだと思います。





最後に残った 4.ポストモダン×コンテンツ、が何なのかを考えると、これが村上隆スーパーフラット、のような文化的現象なのかな、と思ったりするわけです。



この間、TateのPOP展で、最後の部屋が秋葉原だったんですね。 マレのギャラリーでも日本的の漫画的なものが展示されていたし、日本的クールというのは一定の地位を占めているように思います。



どうして、世界で、あの日本の秋葉的なものが評価されるのか、ということを考えたときに、東浩紀が提示した二軸はとても参考になります。つまり、ポストモダン的なものをコンテンツにまとめると、こういうことになるのではないか、と。





まー、そんなことで、ちょっと長くなってきたのと、夜中のワインが回ってきてしまったのでこの辺でやめて起きます。





いずれにしても、色々考えさせられる本でした。 もう一つ、「相手をしてくれる」という本質的な便益に、ついて思う所があったのですが、この話はまたいずれ。