[]時代の空気(小津安二郎「秋刀魚の味」)

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1962年の小津安二郎の作品。



内田樹は、「嫁に出す=女の交換→構造主義的?」という読み方をしていましたが、僕はそういう観点では見られませんでした。 どっちかというと、この先1970年代〜90年くらいまで続く、核家族化と社会の紐帯の断絶の初期状況を見た気分。



そんな昔の話ではないけれど、結婚の形態が今とあまりに違う。



「路子ちゃん、縁談どうだい」

「なんだ、もう決まってしまったのか」

「お父さんがぐだぐだしていたのが悪かったんだ」



と、今の時代ではありえない縁組の進め方が続きます。



今の時代、皆さんなかなか結婚しませんが、こういう時代なら、それはみんな結婚するでしょうよ。23・24になれば嫁に行くもんだ。それは身近な人が縁談として持ってくるもんだ、という時代であれば。恋愛結婚はあればプラス、位の位置づけ。



でも、この制度、大家族でつながりが幾重にも重なっている社会じゃないと厳しそう。夫婦になって二人で住んでも、大きな社会の中に包摂されているのであれば、1日に占める純粋な二人の時間は多くないんだと思います。なので、万が一相性の悪い人と結婚しても、致命的な息苦しさにはならなさそう。



でも、核家族化が進み、カプセルの中に閉じられるような環境で夫婦生活を営まなければならないのであれば、それは本当に心地よい人と結婚しないと、その先何十年は息苦しくてしょうがないでしょう。



この映画は、こういう結婚形態が「息苦しくなる」「息苦しくない」という時代の狭間を描いているように思います。



事実として、家族がばらばらになりかけています。両親との同居は「居心地が悪い」という認識が広まっており、現に長男夫婦は団地住まい。



そんな中、一人娘の路子を嫁に出した主人公は最後のシーンで、それまで一切立ち入らなかった(=嫁に行った路子の領域)台所で水を飲みます。その姿がえらい寂しそう。



映画の中では、まだまだ近所付き合いもあり、親と子との交流も描かれていますが、台所で水を飲む主人公の悲しそうな後ろ姿はこの後、昭和の時代に広がっていく核家族化・紐帯の断絶を予測させるシーンでした。



小津の映画は、家族の日常を淡々と描いていくんですが、時代の空気みたいなものがちらりちらりと見えて、なんだか良くわからないんだけど、社会を見た気になるんですよね。



その辺りが非常に不思議