[]論語への招待(渋沢栄一「論語と算盤」)

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とある人がお勧めしていたのを目にして読んでみました。大事業家の渋沢栄一の商業観を綴った本です。





発達モデルとして、人は



・社会的構成員

 −社会の価値観を受け入れ、それを順守する

   ↓

・自己創造

 −自分は何を本当は望むのか、に気づく

   ↓

・自己への気づき

 −自己の望みは世界を見るフィルターのひとつにしか過ぎない、と達観する



という段階を経て成熟していく、という話があります。



事業家は、多くの場合「自己創造」のステージに有り、自分が何を望むのか自分で分かっています。(だからこそ事業を興す) そして、その先の「自己への気づき」ステージに入っていることも多く、自分の望みを追及すると同時に、それを犠牲にしたとしても何かより大きなものに貢献すると言われています。



渋沢栄一の場合は、それが「論語」を軸とした商業を追及することだった、ということなのだと思います。



ただ、ちょっと解釈が難しい。というのも、この本、文体から「社会の価値観」を強調しているように見えるんですよね。「人はこう生きるべき」という押しつけがましさは無いのですが、社会の構成員になりきっていない青年に対して、年長者として訓読を述べている、という印象はぬぐえません。



「こう生きるべき」というアドバイスは、それはそれで良いのですが、この本を読む読者の大半には刺さらないのではないでしょうか?というのも、こういう人はすでに社会の価値観はなんであるかわかった上で、それでもまだ何かに悩んでいる人たちだと思うのです。(そういう人じゃないと、こんな本をわざわざ手に取らないと思う)



こういう人達が悩む点は、

・社会の価値観と自分の望みがこんがらがって、自分は本当は何をしたいのか良く分からない



ということか、もしくは、

・自分が何をしたいかはわかっているが、もっと崇高な価値があるんじゃないかという直感がある



ということなんじゃないかと思います。



この本は、そういった問いに対してはヒントを与えてくれません。それは、渋沢栄一という人物が生きた時代が、社会規範と自己の望みを極めて切り離しにくかった時代だからなのかもしれません。ただ、それでもこれだけの大人物が生涯規範とし続けた論語の中には、個人の望みを超える何かがあるのだと思うのです。



もしかしたら、渋沢栄一論語を自分の中に取り込んだプロセスを自分自身で追体験することが必要なのかもしれません。わからないことがあったらソースに戻る。そんなことが必要なのかもしれません。