[]マウリッツハウス美術館 (Mauritshuis Museum)

ハーグの街の真ん中にある美術館ですが、建物自体がコンパクトながらオランダらしいというか、均整の取れた建物で、良いなと思います。裏がすぐに人工池なのもちょっとオランダっぽい。



マウリツ




ここにはレンブラントの「テュルプ博士の解剖学講義」とフェルメールの「真珠の耳飾の少女」があります。







なぜかここで17世紀の風俗絵画を観ていたら、ニーチェが言った「神は死んだ」という言葉の意味がなんとなくわかったような気がしました。



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ヨーロッパの絵画を見ていると、世紀によって明確に題材が変わって来るのがわかります。これはどこの美術館に行っても一緒。



16世紀くらいまでは宗教絵画が多く、モチーフもピエタとか受胎告知とか、聖書の一場面から取ったものが大半。



17世紀くらいから、貴族の自画像とか家族の絵が増えてきて、これはきっと現代の家族写真の代わりなんだろうと思います。(なので、この手の貴族絵画にはあまり興味が無い。見知らぬ家族の写真見たって面白くないし)



で、それ以降になると風俗絵画が増えてきます。この時の人物の表情は、いかにも16世紀以前の宗教絵画とは書き方が異なります。



中世の人物の表情には複雑な「意思」が感じられません。正直、焦点も定まっていないように見える。ところが、17世紀以降の風俗絵画の人物の表情には現代の我々と同じような複雑な「意思」が読み取れます。



フェルメール真珠の耳飾の少女にしてもそう。



真珠




ここから何を読み取るか、この少女が誰なのか、は色々と解釈があるようで、自分はあまり興味がありませんが、振り返り様に画家を観る眼にどんな意思が込められているのかには興味がある。





これが「神は死んだ」ということなのだろうか、と思ったわけです。



つまり、キリスト教における形而上学的な絶対価値というものがあった時代は個人個人の複雑な価値観・心理を表現することになんの意味も無かったので、絵画における人物の視線にも意思が込められていなかったのか、と。



ニーチェは19世紀の人ですが、絵画を見る限り17世紀の段階で、すでに神は死に始めているように思います。この間、プラドで観たエル・グレコも題材はキリスト教を選んでいるけれど、そこに出てくるキリストは既に人間の視線を持っていました。



日本人の宗教観は形而上学的なものというよりは、なんというか社会道徳的というか、よっぽど人間的なものなので、あまり「神は死んだ」と言われてもピンと来ないのですが、ヨーロッパの人にとってはこういうことなのかなあ、なんてことを考えました。