[](ネタばれ注意)「インセプション」を観て思ったこと

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問い:最後のシーンのトーテムは結局回り続けたのか?







答え:どっちでも良い(=この問いに意味が無い)





この映画、もうちょっと判りにくい構造で作ってあるのかと思っていたのですが、比較的単純ですよね。夢が階層構造をなしていて、当初の設計だと3層だったんだけど、全部でおそらく5層・もしくは6層構造になっています。



5層・もしくは6層と言っているのは、最後の場面で、ディカプリオだけが6層に落ちたのか、それとも渡辺謙と一緒に5層から現実までキックして戻ったのかが明示されずにエンディングになるからです。



で、夢か現実かがわからない状態で、ディカプリオは最後にトーテムの駒を回し、それが倒れれば現実、回り続ければ夢、ということでその結末を観客は観ることなく映画は終わります。ここで観ている観客のほうは「これはディカプリオの夢なのか、それとも現実なのか」という問いを抱くことになるのですが、この問いには意味がありません。なんでかというと、ディカプリオにとっては「子供と再会して顔を見る」という願望はすでに充足されているのであって、それが夢であるか現実であるかに大きな違いは無いからです。



一晩の夢で、夢から覚めて「なんだ夢だったのか」と思うのならば、そこには現実>夢という関係があるので「これは夢か現実か」という問いには意味がありますが、夢の中にいることを日常と選んだのであれば、現実>夢とはならず、現実=夢、もしくは夢>現実、となるので、「これは夢か現実か」という問いを持つことに意味がなくなります。



だから、トーテムが倒れるか回り続けるかは、ディカプリオが「自分は夢の中にいる」と認識するかどうかの違いしかもたらさなくて、万が一「これは夢だ」と認識したとしても、目の前にある圧倒的な現実感の前では、その認識には大きな意味は生まれないでしょう。



観客として持つべき問いは、そうではなくて、なぜ製作者は結末を曖昧にして終わらせたのか、ということだと思います。単純に結末でなぞを残して作品としての完成度を上げることを狙ったのであれば、僕は個人的にはそれ以上の興味は持たないし、別の意図があったのであれば「それはなぜか?」を知りたくなります。



僕は、トーテムがどうなったのかを見せなかったのは、それがどっちでも良いことだからだと思います。これは勧善懲悪の映画ではないので、登場人物達が幸せになるかどうかがハッピーエンディングかどうかの分かれ目になるのでうすが、そういう意味では「現実に戻れた」ことと「さらに深い夢に落ちた」ことの違いに意味はありません。さっきも言った通り、それはディカプリオの感じ方の問題だからです。



筒井康隆が「パプリカ」の中で描いたような、夢と現実がごっちゃになる状態というのが、僕らを取り巻く世の中の姿であって、現実こそすべて、というような考え方ってナンセンス、というのが最後の場面のメッセージだったんだろうと、僕は解釈をしました。