ホテル・ルワンダ (2004)

hotelruwanda

”「われわれは自分の体験について語るのを好まない。何故ならば収容所に自ら居た人には、われわれは何も説明する必要はない。そして収容所に居なかった人には、われわれがどんな気持ちでいたかを、決してはっきりとわからせることは出来ない。そしてそれどころか、われわらが今なお、どんな心でいるかもわかって貰えないのだ。」”(「夜と霧」 V.E.フランクル











映画の中に大勢の「自分」が出演しているのを発見しました。



外国人の強制退去で、残していくルワンダの人々が殺されるのが分かっていながら、どうすることも出来ずバスに乗り込むカメラマン。 中盤で、虐殺のスクープ映像を撮影したカメラマンに対し、ポールが感謝の言葉をかけますが、酔ったカメラマンはポールに対してこう答えます。



「虐殺の映像が先進国の食卓で流れたとしても、先進国の人達は「怖いね」で終わってしまうんだよ、ポール」









社会の幸せは個人の幸せの積み重ねでは作られていません。





仮に自分があの場所に居合わせたとしても、僕は黙ってバスに乗り込んだと思います。もしかしたら映画の中での白人のように、バスの中から哀れみの表情を浮かべ、残されるルワンダの人達の写真を撮っているかもしれなません。



映画を観た後に、それをエンターテイメントとして自分の中で消化してしまい、「怖いね」と言って偽善者じみたことを言ってしまうかもしれません。





あのカメラマンは自分だったし、暴徒と化した民兵ももしかしたら自分かもしれません。(集団的な興奮状態の中で、自分は虐殺行為をしないと言い切れるか、自信がない)







ホテル・ルワンダ」が優れているのは、自己犠牲的なヒーローを描かず、家族「を」守ろうとする男を主人公に据えたところだと思います。



映画のコピーは「1200人を救った」とありますが、1200という数字を強調するのは商業的なクライマックス感を創出するためであって、実際に映画に登場するポール・ルセサバギナ(ドン・チードル)は、大勢の命を救った英雄ではありません。





むしろ、彼をヒーローとして解釈することはこの映画の価値をひどく落とします。







映画の序盤で、隣人がツチ族の疑いをかけられ、民兵に連行されるシーンがあります。「なんとかしてあげて」という妻タチアナの願いに対し、ポールは「助けたいのは山々だが、自分にはどうすることも出来ない。彼は隣人だが家族では無いから」と言います。



結果として、ポールは1200人の命を救うことになりますが、それは、彼の「家族を救う」という行為の延長であって、個人的な幸福を求める行為のおまけとして1200人の命が救われたという点がポイントです。



もし、これが、「主人公の英雄的決断と献身が大勢の命を救った」という話であったなら、この映画を観る必要はありません。 「シンドラーのリスト」をもう一度観て感動すればこと足ります。





エンドロールは突然訪れますが、映画を観終わった後に残るのは、「ヒロイックな行為を目撃したことによる昇華感」ではなく、「世界の裏側で虐殺が行われたという事実を突きつけられ、それを自分の幸福な生活の中にどう位置づければ良いのかわからない自分」です。





つまり、問題が「昇華されない」のです。





僕はこの映画を観て、社会的な不幸せと自分個人としての幸せをどのように折り合いをつければ良いのかわからなくなりました。



エンドロールが出ながら、映画の要所要所で挿入された歌が歌詞付きで流れます。この歌詞があまりに深く心に刺さったため、しばらく茫然自失になり席を立てませんでした。





今のところ、23区内では渋谷のシアターNという非常に小さな映画館での上映になっていますが、この映画は観るべきです。